戦後60年以上も経つと、遺族も年々少なくなって、家族が戦死したことの想いも薄らいで来ているのでは?と感じるような場面があります。
篠山市では、毎月8日に戦死者の祥月命日の法要が、遺族会と仏教会とで行われ、私も一年に一度ほど当番が当たって法要のお勤めをします。
読経の後は30分ばかりの法話があるのです。もちろん、その法話も当番の僧侶の役目ですから、各宗派毎に多少趣が異なるのでしょうが、残念ながら他宗派のご法話に出合うことはありません。
2004年6月の当番に当たって、今年は一つの資料を持参して臨みました。それは、タンスの奥に大切にしまわれていた「戦死の公報」です。正式には「死亡告知書(公報)」と言います。
実は、私は本来が寺の跡継ぎではなくて、戦争が私を寺の跡継ぎにしました。女・女・女と三人が生まれ、四人目にやっと出来た男の子だったので、祖父は「男なり」という感激からか、「男也」(おなり)と名付けたのは、私の母の弟でした。学校を出て、小学校の代用教員を勤めながら、祖父の手伝いをしていました。そこへ召集令状が来たのです。
小学校で子供達に言い残したのは、「軍人さんにはなるなよ」、「軍人さんの嫁さんにはなるなよ。後家さんになってしまうからな」と言い残したということを、当時の教え子だった方から伺いました。
姫路の連隊に入営し、やがて戦地へと赴く前の面会の日に、私はまだ一歳になるかならないかの歳でした。軍服姿のおじさんに抱かれた写真が、ついこの間まで残っていました。
戦地は沖縄。あの猛攻撃の中で、「男也」とまでに名付け、親の期待を一心に受けて育ったおじさんは戦死していったのです。火炎放射器の炎に飲み込まれたのか、艦砲射撃にあったのか、機関銃の銃弾を浴びたのか、あるいは隠れている所に手榴弾の直撃を受けたのかは定かではありません。
戦死の公報が届いたのは終戦後2年も経っての昭和22年8月1日付でした。
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死亡告知書(公報)
本籍 兵庫県多紀郡古市村古市五七番地
海上挺身基地第二十六大隊故陸軍兵長酒井男也
右は昭和二十年六月二十二日時刻不明沖縄本島摩文仁に於て戦死せられましたから御通知致します。
なほ市區町村長に對する死亡報告は戸籍法第百十九條により官に於て處理致します。
昭和廿弐年八月壱日
兵庫県知事岸田幸雄
留守擔當者酒井文夫殿
(左の写真は実物です。B4の薄い和紙製です)
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《下》
酒井勝彦 師 (古市 宗玄寺)
そして、この「戦死の公報」に添付されていたのが藁半紙に印刷されたB6の紙二枚です。
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英霊に就ての御知らせ
御英霊の傳達に際しては更めてその日時及び場所を御通知致します。
尚死亡賜金等は御英霊傳達の際に支給することになってゐますから御承知置き下さい。
兵庫縣第一世話課
御遺族様
御英霊は板切れに名前を書いたものでした。
そもそも御英霊とはそんな「物」なのでしょうか?。
男也さんの墓石には「両親悲泣して此を建てる」と刻んでいました。
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謹啓酒井男也殿の御戦歿遊されました公報を差上げるに方り御遺族の御心中御愁傷の程如何ばかりかと誠に御同情に堪へません 茲に謹んで御悔み申上げます。
唯此の上は御供養に専念せられると共に犠牲を無にせられることなく新日本建設のため御努力遊ばされ末永く御多幸ならん事を切に御祈り致します。
尚時節柄何かと御多艱なる御起居を遊ばされ居る事と拝察致しますが當廰に於きましても及ばず乍ら御家庭についての御相談に應じて居りますから何卒御遠慮なく御申出下さる様申添へます。
昭和廿弐年八月壱日
兵庫県知事 岸田 幸雄
御遺族様
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多くの兵士は一片の紙切れで招集され、そして御英霊として故郷に帰って来たのです。残された遺族は、これからどうやって生きて行ったら良いのか路頭に迷ったのです。
唯此の上は御供養に専念せられると共に犠牲を無にせられることなく新日本建設のため御努力遊ばされ末永く御多幸ならん事を切に御祈り致します。
この文言はそっくりそのまま政府にご返還致したいものです。
「御供養に専念せられ」ていては食って行けないのです。「犠牲を無にせられることなく」やって欲しいのは政治そのものなのです。
たった一人の息子を取られてしまい、憔悴の果てにいる遺族が、その上まだ「新日本建設のため御努力遊ばされ」なければならないのですか?。
そして、「末永く御多幸ならん事」が待ち受けているのですか?。「及ばず乍ら御家庭についての御相談に應じて居ります」と言ったって、どうせ門前払いではなかったかと…。
戦死して行かざるを得なかった道は、遺族や本人が選択した道だったとでも言うのですか。
戦後60年を経て、改めて取り出してつくづくと読んでみると、人間を「物」のように見て扱ってきた時代の様相が分かります。兵より軍馬を大事にせよ。兵は一銭五厘で補充出来るが軍馬は補充出来ないとまで言われたのです。
「愛国の母」と呼ばれ、我が子の遺骨箱を胸に抱いて、どうして涙をこらえることができるでしょうか。「泣けば非国民」とののしられ、みんなが帰った後、納戸の隅で、声をかみ殺して泣き崩れていったのは、いつも母だったのです。
風の吹く夜に、表戸がガタガタと鳴ると、「男也が帰ってきた」と戸を明けて確かめていた祖母は、83歳で亡くなるまで、我が子の戦死を受け入れようとはしませんでした。夕方になると寺の門の敷居に腰掛けて、「今度の汽車で、ひょっとしたら男也が帰ってくるのではないか?」と毎日待ち続けてもいました。岸壁の母は丹波にもいたのです。
遺族年金は、「男也の命と引き替えだ」と大切に大切にしていました。祖母は、裏の小さな畑に、陸稲も作り、麦も作り、芋もカボチャも、茶も豆も…。食べられる物は何でも作りました。私は小学校の頃から下肥え汲みを手伝い、畑堀りを手伝い、豆の支柱づくりも手伝って来ました。だから、今でも畝立ては上手なんですよ。番茶の手揉みなんてオチャノコサイサイなんです。もういやと言うほど手伝わされて来たのです。そうしないと生きて行けなかったのです。私の学費は、祖母が出してくれた、いや、男也という人の命と引き替えのお金だったのです。
戦争を知らない世代に移り変わって、何やら首を傾げたくなる事に出合うものです。身の回りに物があふれ、その物を手に入れんがために働き、手に入れた物を維持するためにあくせくと働いているのです。そしてこの瞬間にも、この地球上のどこかで銃弾に倒れて行く人が後を絶ちません。私達の周りでも、またぞろ同じような社会の様相が始まっているのではないかと危惧します。戦争という手段でない方法で物事を解決するのは出来ない事なのでしょうか?。
毎月の戦没者祥月命日の法要や、年に一度の戦没者追悼式は、犠牲になって行った肉親の悔しい想いをもう一度しっかり噛み締め、二度と不幸な人を出さないための誓いの日であらん事を願うばかりです。亡き御英霊を供養してあげるのではなく、亡き御英霊から、生き様を問いかけられることこそが大切なのです。
真宗では御英霊という言い方には抵抗があるのですが、あえて用いました。
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戦争に加担するのは嫌です!!
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