未来へ伝えること
篠山市長 酒井 隆明氏
今、集団的自衛権が議論され、多くの人が、また戦争への道に進むのではないかと心配し、平和のあり方、国の守り方が問われています。
私は、「戦争放棄」は絶対に守るべき大原則と信じます。
そのためにも、戦争の悲しく、辛い、そしてむごく残忍な体験を伝えていくことこそ、大切です。
遺族会のこのお取り組みに、心からの敬意を表し、未来に向け、ご英霊に感謝し、平和を守る中心であられるよう祈念します。
〈2014/09/02 拝受〉
非戦の誓い
林 茂 篠山市議会議長
戦後70年、戦没者と寝食を共にされた遺族の方々も少なくなり、追悼式への参加も年々減少し、遺族会の運営も難問山積でしょうが、真の平和到来のために、また絶対に二度と戦争をしないとの決意を新たに、遺族会活動と英霊顕彰を継続していただきたいと、遺族の一人として思考します。
思えば遺児としては、私が一番若い年代で、70歳。写真でしか親父の顔を知らず、親父もまた私を見ることもなく戦死、苦労して育ててくれた祖父母を思うとき目頭が熱くなります。
翻って、戦後の日本は、米国の傘の下で平和を享受してきましたが転機を迎えています。現代の世界は、どの国も一国では自らの平和を維持することは不可能。ならば米国に依存、同盟を強化、片務契約の解消…。
理解できないことはないが、安全保障環境の変化により憲法を時の権力者が都合の良いように解釈変更というのは理解しがたい。頼れるのは米国以外にないが、その米国は軍事大国、正義 大義は時としてない。あるのは巨大な多国籍企業の利益。
日本は、あくまで専守防衛、非戦に徹しきれるのか。
武力行使の新3要件も時の政権の判断次第という危うさ、いかなる戦闘に巻き込まれても、平和、安全のためでは救われない。
戦争は最大の人権侵害。
決して戦争はしない、英霊のためにも。
………………………
~親子で綴る~
「 戦中・戦後の体験と平和への展望」 に寄せて
兵庫県会議員 小西隆紀氏
本年1月16日 小野田寛郎氏がお亡くなりになりました。
終戦後、約30年を帝国軍人としてフィリピンのルバング島山中で過ごし、昭和49年3月帰国されました。
帰国の様子はテレビ中継され、その視聴率は45.4%もあったとのことです。
当時私は8歳。
うちの家でも皆がテレビを囲んでいたのを覚えています。
また、画面を見ながら祖父や父母が泣いていたのも覚えています。
私の伯父はシベリアでの抑留を経て帰国しました。
帰宅した時の様子を母に聞いたことがあります。
曽祖母が山で作業中、一人の兵隊が家に向かって歩いているのを見つけ、「うちの子やったらいいのに」と思いながら見ていたこと。
幼少の母が、炬燵に入っていたら、いきなり「ただいま」と帰ってきたこと。
出征時に半分のみ食べた梅干しの残り半分を食べたこと。
家じゅう大喜びであったこと。
縁者には戦死した者もいます。
戦後30年近くを経て帰国を果たされた小野田少尉の姿に、当時のそれぞれの思いがよみがえったのでしょう。
子供の頃、周りの大人から戦時中の話をよく聞きました。
過去の話は、聞くことは出来ても、見ることはできません。
しかし、テレビ中継を通してではありますが、小野田さんは、私が初めてこの目で見た『現役の日本兵』の帰国場面でした。
フィリピンでの投降式での振る舞いや、帰国時の様子、また、それを見守る大人達の様子等々、私にとって、「小野田少尉帰国」は、たとえごく一部、ほんの一片であったとしても、「あの時代」を目にすることが出来た貴重な体験だったと思います。
【私は「軍人精神の権化」か、「軍国主義の亡霊」かのどちらかに色分けされていた。私はそのどちらでもないと思っていた。私は平凡で、小さな男である。命
じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である。(小野田寛郎)】
帰国間もなく、小野田さんは政府からの見舞金や寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付されています。
それは、「少し遅れて帰ってきた、死に残った一人の敗軍の兵」の素直な気持ちであったと思います。
現在の平和は、先の大戦で犠牲になられた多くの方々の命が礎であるとともに、あの時代を生き抜かれ我が国の復興にご尽力いただいた方々のお陰であります。
私たちの世代は、その恩恵を単に享受するのみにあらず、さらに後世へと引き継ぐ努力を怠ってはなりません。
終戦70年にあたり、あらためて先の大戦でお亡くなりになられたすべとの人々のご冥福をお祈りいたします。