燃え狂う周炎くぐり爆心へ
山根巳代治さん(味間)の原爆二度被災
1945年8月9日 長崎↑
広島 1945年8月6日 ↑
1945年8月9日 長崎↑
2016 篠山市 平和パネル展
8月2日(月)~8月12日(金) 篠山市役所本庁1階市民ホール 主催 篠山市人権課 |
広島約10万 、長崎約7万が犠牲に
ピカドンの狂焔くぐり爆心へ
地団駄で長崎爆心記録する
山根巳代治さんの原爆二度被災
1945年8月、篠山市味間南在住の故山根巳代治さんは、あの苛烈凄惨な原爆を二度---広島と長崎で---遭遇されました。 その状況をご存命中の2001年、山根さんにお聞きし、要約しました。
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8月6日 広島朝 警報解除
舞い戻るB29より落下傘
「川へ飛び込め」
高槻の工兵隊より南方への出動・乗船命令が出て、広島宇品港に向かう途中の6日の朝、広島駅から、これで日本の見納めだ、と思い、電車に乗らず歩いて宇品港へ向かった。大正橋へさしかかったとき空襲警報。しばらくして解除。ところがまたアメリカのB29が舞い戻ってきた。見ていると落下傘が降りてきた。味方の高射砲が命中して操縦士が降下するのかな…しかしそんなはずがない。どうもおかしい、新型爆弾ではないかと直感。部下の兵隊に命じた。
「川へ飛びこめ」… 飛び込むや否や、頬を強烈にぶたれる衝撃を受けた。
しばらくして兵隊に「生きとるか」と言うと「はい、生きとります。しかし何にも見えしません」という。自分も目の中で渦が巻くようで何も見えない。時間が過ぎて少しずつ見えるようになってきた。堤防を這い上がる。驚いたことに先ほど走っていた電車も人も何もない。音もない。一面地獄に一変していた。
途方にくれたが、軍の命令通り宇品港へ…一目さんに走った。
しかし宇品港は壊滅。出航不能、長崎へ行け、との命令。とはいえ広島駅も壊滅。軍用トラックと汽車を乗り継ぎ、炭水車の上にしがみついて下関へ。そこで山陰線廻りで来た本隊と合流。人目につかないように山中を通り長崎へ。
八月九日長崎 11時過ぎ 空襲警報解除
また落下傘「船に乗れ!弦に伏せろ」
長崎駅に着いた機材を整理し港まで運搬の命令。一小隊を連れて危険物を海上輸送した。一段落し小休憩。そのとき空襲警報。敵機がいるのに広島と同じように空襲警報の解除。そしてまた落下傘が…広島と同じ新型爆弾だと直感、兵隊に命じた。
兵隊は空襲警報が解除になっているのになぜ、というものがいたが「急げ」と命じ船縁の弦に伏せさせた。操縦できるものは自分だけであったので自分だけ体を伏せずに操縦。二分も行かぬうちに爆発。船は転覆した。
十分ほどたって集合をかけると全員海から泳いで上った。
隊へ帰ると「被害は相当らしい。爆心地の状況を偵察に行ってきてくれ」「昼飯はまだです」「走りながら食え」と言われ走りやすい地下足袋で爆心地へ走った。 前を走る兵隊の背中に、にぎりめしの飯ごうを置き、交代して食べながら走った。(軍隊の命令は天皇の命令。生命より重い)
半身火傷
そのまま爆心へ走る
市街は一面火の海。至る所、建物の焼ける音と「助けてくれ」などのうめき声、泣き声で騒然とした生き地獄。しかしどこから爆心地へは入るか。入るところが見あたらない。川を見つけ川沿いの火の粉の中を突っ走って爆心へ。
爆心の中は人はもちろん建物も木も立っているものは何もない。先ほど通ってきた喧騒地獄とはうってかわってうそのような静寂・・・ 〈右上へ〉
爆心地
遠い山だけ立つ地獄
焼野が原には瓦礫の隙間に埃まみれの生首がごろごろ転がっていた。片腕だけちぎれていたり足だけがちぎれていたり、まともな死体は一つもなかった。
初めは死体を板切れに載せて顔が見えるように置いていたが次から次あまりの多さにあきらめた。駅までの道路を作るための調査なので、巻き尺で川からの距
離を測り被害の状況を記録した。当番兵が誰かの足音がついてきます、身を震わせてかぶさるようにのしかかってくる。「もっと離れて歩け」と言うのだがくっついてくる。
その後の伝令兵も同じように当番にくっついている。自分たちの足音が静寂の中にこだまして、追ってくるように聞こえるのだった。
調査が一段落して休憩しようとしたが、大地は焼け、木も発火するぐらい熱い。腰をおろすところがない。足の裏も熱くて立ち止まれない。
足踏みして小休止
そのとき…
当番が「赤ちゃんの声がします」という。この灼熱の中、生きとるはずがない、猫と違うか、と言ったものの確かに聞こえるような気もする。故郷の長女の泣き声の空耳かとも思ったが五十メートル範囲を捜せ、と命じた。
兵隊とことにした。大きな木が引きちぎられたように倒れているところにで、この木屑の下から聞こえます、という。そこは吹き溜まりで木切れの吹き寄せられ山のようになっていた。兵隊は、スコップはおろか手袋もない。木は燃えるほど熱い。
素手で木切れをのけいくうちに、「これ人間の背中と違いますか」と兵隊がいう。
私も木をのけた。ようやく服のチェックの模様が見えてきた。
しかしそれは皮膚であっ た。やっとのことで木と瓦礫を取りのけると若い母親が腕で子どもをかばいながら乳を含ませたすがたのままで四つばい倒れていた。乳児を赤十字病院に届けさせ「水をあげましょうか」と言うとゆっくりとうなずき、ごくんと音がして喉を落ちた。何か言うことありますか。…口が動くが声にならない。もう一度水をあげるとごくんとまた音がした。そして「兵隊さん……」「何ですか、子どものことですか。子どもは大丈夫ですよ」
「……私たちが……なぜ…なぜ……」と言いつつ母の息は絶えた。
遺体は板の破片に載せ顔だけ出して葬った。
「このときの母の声が今も忘れられない。」としみじみ語る山根さん。
帰篠後は、ヘッドライトに目が眩むなどの放射能後遺症のため入退院を繰り返し、また歩行の不自由と闘い続けてきました。その上に原爆症への恐怖と偏見、差別が重なります…。
このように原爆は、二重、三重に、筆舌に尽くせない苦難を与え続けてきました。
「戦争をしてきた我々はその償いをしなければならない。これからも聞いてくれる人がいる限り、出向いて語りたい。特に女性や、若い人に知って欲しい。
と言われたいた山根さん。原爆や戦争を知らない私たちはこのお言葉に、少しでもお答えしなければと痛感します。
燃えさかる 周煙くぐり爆心へ
爆心は静寂地獄 熱地獄
足ぶみしつつ小休止とる
「何で…なぜ…」原爆の母 稚児遺し
[ 録音起こし・要約 石田宇則 ]
傷痍軍人 涙の汗の死者運び (B291t爆弾跡へ)
疎開の子 モンペ二枚と白いシャツ
空襲に 疎開のできぬ子どもらは 防空壕への露地で吹っ飛ぶ
空爆の穴で無心に遊ぶ子ら 母の喚き(わめき)にあわて這い出る <B29 1t爆弾跡 大阪市十三>
草生(む)すや兄の骨箱石ひとつ (忠)
傷痍軍人 汗と涙の人背負う
終戦日千人針入り万葉集