海底を徒(かち)ゆく跣足(はだし) 震洋(しんよう)忌
土肥幸弘氏(玄鳥顧問)
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日清、日露、支那事変…と侵略をエスカレート、帝国主義戦争を勝ち誇ってきた太平洋戦争激戦のさ中、米軍では、航空機監視レーダーや新鋭の近接信管を開発、配備した。
一方、1944年には日本の「絶対防衛圏」戦略は、機密も暗号も、米英に筒抜け。特攻機はことごとく米軍に探知され、よい鴨となった。わずか二日でこの戦略は破綻。制空権を完全に失った。
大日本帝国の窮余の策は、ベニヤ板製のモーターボートの「震洋特攻隊」作戦。
ところが、「震洋特攻隊」に出撃命令は出たものの、その輸送船が、制空権を確保した米軍の絶好の餌食に、「一撃の大鴨」…。
撃たれるがまま轟沈、静まり返った海底へ…。
やがて鯨が心配そうな顔で、何かつぶやきながらやってきました。それから、鯨さんの畳の部屋に居候させてもらうことになりました。深くて暗い海底の生きものたちと親しくなって、浦島さんの話をしたり、時には昔の習性で、海底を裸足で徒歩きます。靴をはいては泳げませんから。また、年中広い洋い太平洋の島々めぐり…。波を枕の永遠の旅日記…。
鯨の中の畳の部屋の灯が点る
土肥幸弘氏句碑
「聖戦」
海の≪特攻艇≫ 震洋一型艇
(1) 震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し、上陸船団に体当たり攻撃する。 (Wikipedia)
◆ 伏龍隊
(元伏龍隊員Y氏 )
「震洋特攻隊」
…里見さんは1942年に15歳で志願し、茨城県の土浦航空隊へ。兵器も物資も尽き、上官に「もう、飛行機はない。水上特攻だ」と言われた。長崎県の大村湾にあった訓練所に移り、震洋の操縦を学んだ。
教官が言った。「トラック用のエンジンをつけかえた。ほかに戦うものはない」「軍艦は無理だが、輸送船なら4メートルの穴はあく」。2隻、3隻と集団で体当たりする訓練を重ねた。
45年5月、手結基地に配属されたが、敗戦。里見さんは「ぶつかってやりたかった」と悔しかった。みんな泣いた。
その、翌日のことだ。
部隊に「出撃準備」の命令が無線で届く。基地の拡声機が「敵が本土上陸を目的に土佐沖を航行中」と告げた。命令がなぜ出たのか今もわからない。
船首に爆薬200キロを積んだ震洋を、みなで手分けし、壕(ごう)から浜に並べた。
午後7時ごろ、近くの倉庫前で整備が終わるのを待っていたとき、1隻から火が出たのが見えた。「海へ放り込め」。声が聞こえた瞬間、「ボン」と音がした。周りの艇に次々と引火し、火柱があがった。
気づくと倒れていた。大きなけがはなく、近くの松林にまで飛び散った遺体を集めた。木に刺さった胴体、根元に転がる手足……。多くは18歳前後の若者だった。初めて戦争の現実を見た。整列のときいつも隣にいた仲間も死んだ。遺骨を届けた上官の母親と妹は「戦争が終わったのに、どうして」と泣き崩れた。爆発は、燃料漏れが原因といわれている。…
惨劇語る生き残り元少年兵/朝日新聞 2011-08-16
Xxxxxx...... 今月の激戦 .....xxxxxX
4月1日/1945年当日の天候は晴、日の出6時21分、満潮時間は9時10分。米軍は艦艇が海岸近くのリーフを越えさせるために、この満潮を利用した。⇒
日本軍は数日前から嘉手納正面に徹底した艦砲射撃や航空攻撃が加えられていたことから、概ねの上陸地点を予想していたために、上陸に関して大きな混乱はなかったいわれる
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