身はたとえ パラオの沖に死するとも
魂生きて父の元へと
(故 西嶋辰夫氏遺作=スマトラ・パラオで戦死)
火焔も涼し
サイパン窟の兵・母・子
夏草を倒す戦車へ手榴弾
一滴の水争いや 兵も子も
新茶の香 夢のまた夢サイパン窟
姉ちゃんの出尽きた乳房 炎天洞
五回めの小水搾る サイパン窟
米海兵 炎天洞に泣く赤子
火焔放射 雨乞い島の雨蛙
乾く舌 泣く子の親へ汗脚絆
それだけは・・・ ためらう母へ剣(つるぎ)の眼
土用凪 脚絆は赤児の口と首
水枯れに火焔の放射 サイパン窟
迎え火や火焔放射に乾く舌
火へ猛進 心頭極わまる炎天窟
火焔も涼し 殉忠兵の猛突撃
白シャツを掲げたおんな子 崖と海
(宇2016)
デカンショー極楽 ビルマの地獄
死んで還れぬニューギニア
(消えた篠山170連隊体験談話=NHK)より
ビルマ帰りには デカンショ(祭り=8月15日は)辛い
(ゃ)
今も戦友の悲鳴 顔
デカンショーデカンショーのでっかい遺産
非核平和と黒豆と
非核平和の黒豆笑顔
世界いずこの里までも
マラリア蚊 母の匂いと畳の香
脳マラリアのつまびらか
遠足や 父の形見の凹水筒
サイパンの戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘。
斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2、第4海兵師団、第27歩兵師団が上陸、戦闘の末、日本軍は全滅した、とされた。
常夏の海神(わだつみ)なるや旗手の彼
迎え火の火焔放射にや乾く舌
ゲートルに繋ぐ肉弾虜囚拒否 (ツンドラ*アッツ島)
玉音後 黙って賜わる硫酸銅
ピカドン煙 諸手皮膚垂れ水求む
父帰る 脳マラリヤの骨の顔
夏祭り 再び煽る闇の核
長崎忌 6千発の核盛って (pu)
父ありき 大戦最中のミンダナオ 夢にも会わず七十年過ぐ
ニューギニア出征前の父帰宅 止まらぬ母と祖母の慟哭(どうこく)
=悲しみ号泣する二人の口は、犬のよう…
母がこれほど泣くなんて見たことない。当時6歳女児のおどろき)
今生の最後の敬礼写真かな
支那惑う父の形見の戦闘帽
父帰る マラリア喀血ホトトギス
ひ孫どこ 殉国青葉の万の風
魂 城
大東亜戦召集 思い出の記
海軍二等兵曹
武 田 繁 夫
昭和18年11月1日充員召集を命ぜられ、呉海兵団に入団す。11月12日九州佐伯隊軍防備隊付を命ぜられ、呉佐伯間こがね丸に便乗、昭和19年2月19日第4根拠地隊付を命ぜられ、呉海兵団に仮入団。佐伯呉間汽車隊伍旅行。同年3月6日呉海兵団を出発し、汽車にて横須賀に向ふ。
8日横須賀着。同日アトランチック丸に乗込む。兵器手回品を置き、すぐ食料積込みにかかる。
2日間積込み全部終って11日横須賀出港す。スパイの関係上東京湾内の木更津沖に一夜定泊し12日我等船団12隻が哨戒艇4隻と軍艦「龍田」に護衛され、いよいよ出発す。甲板に出ると左舷のほうに並んで走る輸送船は確かに陸軍らしいのがよく見えた。前後左右に並んで美しく白波を残して走る様は実に愉快である。我画家なれば絵描きたかった。木更津沖を出てから2日目であった。いくら四方を見ても水平線上島ひとつ見えぬのに、富士さんのみは雲の上に頭を出し、我等をいつ迄も見送って呉れて居る。過日横須賀へ来る道中汽車の中にて御殿場駅より富士山をながめた時は我等の門出を祝福せしか一点の雲も無く全景を見せて我等を見送って呉れた時を思い出し、今日はあんなに小さくなって見えるのか、明日はもう見えなくなるのだ。これが日本の内地の山の見おさめか、明日の命はわからない。いつか心は郷里に帰り、皆々様達者で働き守って下さい。私は明日の生命は分かりません。しかし無事任地に上陸したい決心で居りますと合唱して居た。今朝は敵の潜水艦の魚雷で我が船団の一隻が撃沈された。時に午前3時我が乗って居る輸送船に命中したのかと思った。気味の悪い爆音と共に寝て居る身体を1尺ぐらいもほり上げられたようであった。魚雷と聞くやすぐ早く甲板へ上り他の輸送船を見たが暗くてよく見えなかった。古兵に其の時教えてもらった。我が船が撃沈された場合は船の沈み方を見て遅く沈むほうへ飛び込み、早く船を離れて居ること、必ず軍服は脱ぐなと云われた。船が沈んで仕舞うと必ず板か何かが浮かぶからそれを早く捕まえることだと教えられた。色々と話を聞かされ、その翌日であった。亦朝3時頃一隻撃沈された。今朝は護衛艦の瀧田が撃沈されたと聞く。総員益々神経が過敏になって来る。昨日の一隻、今日の護衛艦、両乗組員は救助できず其のまま残る船団は哨戒艇に護衛され、の字運行をし乍ら南方へ走った。空には友軍機が昼間は護衛して呉れているが、夜になると内地へ帰るので、各船のマストより電灯にて信号が続く。友軍機の見える間は気強いが、夜になって友軍機が帰ってしまうと心細い。夜が明ける2時間前、明けてから2時間後の4時間の間と日が暮れる2時間前後が敵の潜水艦の活動を最も注意せなければならぬ時だ。昼間は哨戒直毎に交代して見張りをするが、此の日の出と日の暮れの前後4時間宛は総員甲板に出て見張りだ。毎日生死の見張りでつかれ乍らも二十日余り風呂に一度も入るでなし。亦船には真水の積み込み量が限られて居るので、ま水の量の割に乗り込む兵員が多いので、総員の入浴出来よう筈がないのだ。1,2回はスコールが来たので総員入浴用意の号令があった。其の時は甲板に裸で出てスコールで身体を洗った。而し古兵のみではないが古兵が多く我等補充兵は大体洗えないもの計りであった。上甲板で身体を洗った雨水が下甲板へ落ちる其の水で洗って居る者もあった。哨戒艇が我等輸送船団12隻の2列の縦隊並んだ左右を前後に2隻宛並んで護衛しているが、敵潜水艦の近寄らぬ場合は哨戒直の勤務だけで他は休むが其の時大洋上の我が船団をながむれば、前後2列に左右整列して進行し、各船が黒々として大海を乗り切って址に白い太い線を残し乍ら走る様は実に爽快なり。或る日は大波と戦って上下する場合前後の船は沈んだかと思う程何も見えない時もあった。自分は船にはあまり乗っていないので酔いはせぬかと心配したが、身心が張り切って居れば少しも酔いはなかったのに自分乍ら不思議であった。毎朝の洗面も真水少なき為下士官用に一人当5勺位の真水を配給されるが要領の悪い者がとりに行くと他の隊の兵にくみとられて居る。それで自分等など洗面の出来よう筈はなかった。内地を出発して道中で2隻撃沈され、多くに戦友が太平洋に沈んで消えたのは大変気の毒に思ったが、其の他の船団は全部危うくサイパン島へ着いた。初めて見た南洋の実景色大変に美しかった。永い間の航海で真水が少なくなったので、真水や食料の補給をする。我が船の甲板より下の海上をながむれば黒人がハシケに乗って我が船へ給水作業や食料補給の作業をして呉れて居るのがよく見えた。サイパン島の自分等に見える所は全部砂糖きび計りであった。補給積込各船終り再出港せり。サイパンにて船団は別れ々々になり、各任地に向かう。これより護衛艦はなく各船単独で任地に向かった。我等上原部隊はモートロック行きなり。と鈴木部隊の両陸戦隊が同じアトランチック丸に乗り組んで来たのだった。サイパン出港後3日目トラック島に到着入港す。時に5月8日夕方であった。これより前線任地モートロック行は危険に付き出港できず一先ず乗組員総員上陸。夜業で食糧兵器其の他の荷揚げを行う。上陸しても兵舎は無く焼残りの民家を修理して兵舎となす。四根司令部の命により夏島に我等の使命12糎高角砲台構築す。砲台構築作業中度々敵機の空襲を受け乍ら戦備作業を続ける。敵機が機銃操射をする場合は地面に大きな穴がプスプスとあく。動いているのを見るとすぐバリバリと射って来る。機銃操射は実に気味が悪い。而し夜間の機銃操射は実に美しい。蛍光弾が線を絵書いて飛んで来るのが美しくよく見える。亦、夜の空襲下焼夷弾を落としたのも一里余りの間一面の火の海となり各所に集積してあった爆弾が自爆したことが度々あった。自分等も砲台が出来上る迄は空襲になると壕の中に退避した。其の時の或る空襲の時下であった。自分の背中が暑くなったので手でさぐるとシャツと千人針の腹巻の間にさわると切れる様になった弾片が入って居た。何所かで爆破した破片が飛ぶ力が無くなり落ちたのが自分の背中だったのだ。幸いにして負傷せずに済んでよかったが兵舎は弾片で各所に風穴をあけられ、屋根のトタンも穴があきスコールのある度毎に雨がもってこまった。度々敵機の空襲を受けつつ我が分隊の高角砲4門の据付終わるや4月29日、30日5月1日の昼夜の別なく敵機の大空襲を受く。我等毎日の操法で鍛錬した腕を試す時は来れりと大いに張り切れり。我等は3番砲の砲員なり。我が配置は2番砲手(砲弾の装填)なり。平素の操法にて砲員となれば海軍の花形だよと云われた。いよいよ今日は其の花形たる腕を試す時が来たのである。指揮所よりの号令で4門の砲が一斉に火を吐く。各所の砲台も一斉に火を吐き、大地も崩れん計りの砲声と地響きだ。続いて射ての号令で1ヶ砲に10発宛発射した。さすが敵ボーイング30余機も一度は隊列を崩して東天に去ったが、亦他の敵機が現れたり。
我が方にも各島に1,2ヶ所宛の飛行場は有るが敵機と戦う戦闘機1機も無く本年の2月の空襲でほとんど全滅となり飛行場に飛行機の残がいが山と有るのみ。只空襲となると最初の内は12,3機が飛んで退避して居たが空襲の度毎に帰ってくる数が少なくなり、少しの間に1機もとばなくなって仕舞った。敵も段々と大胆になり低空でやって来る。この3日間は昼夜の別無く我が砲台は火を吐いた。敵も爆弾投下機銃操射と必死でやって来る。我等の生命も今日は駄目々々と思い乍ら敵機に発砲を続けたのであった。3日目の5月1日であった。これ迄は指揮所よりの号令で発射して居たが此の日は各砲自由に生死を忘れて乱射した。
我が砲が火を吐いた途端に砲身の上が真っ暗になり、何も見えなくなった。思わず総員地に伏せた。爆弾だ。総員の伏せた上に土が沢山降って来たらしい。後で気が付くと戦友の上に沢山土が降りかかって居る。自分の伏せた1尺も離れない所に6、7貫位有りそうな大きな石が落下して居た。もう少しで自分の頭は砕かれる所だった。幸いにも我が砲員無事だった。而し班長が背中に弾片で浅い傷を負うていたが、不幸中の幸いであった。砲側の円錐の外へ出ると爆弾の為直径5、6間余りの大きな穴が掘れて水が一杯湧き、大きな池が出来て居た。我が隊の砲台付近へは多数の爆弾が投下されて居た。此の3日間の戦闘は筆舌に表す事が出来ない激闘であった。これ迄の定期的の空襲の折には発砲の数が少ないため、敵機より投下された爆弾も30余個点々と黒いのが双眼鏡で見て居ると段々大きくなりヒユヒユ々々と物すごい勢いで落ちてくるのを度々見たが此の日計りは4門の砲が一斉でなく各砲毎に単独発砲したので敵機の落とした爆弾も気が付かず、只砲の発射のみに必死であったので、落下して炸裂した音も聞こえず、土煙で真暗になって初めて砲員全部が爆弾と知ったのであった。敵機の去った後で兵器点検をすると我が砲身には爆弾の破片が当たって食い取った様に大きな凹んだ所が出来て居た。そして土まみれになり、砲の旋回も上下動も重くなって居た。砲側の弾薬庫は異常なし。小銃の銃架を点検すると大きな石が飛来して銃架はこわれ小銃3丁折れ使用不能となり、其の他の小銃は土まみれとなって居た。すぐ明日の戦備に兵器手入れをなせり。兵舎は破片や爆風で大破せり。兵器手入れを済ませ兵舎の数理も充分には出来ない。1日に一度や2度の空襲は定期になって居る。其の後の空襲で砲弾一発も無く総員防空壕へ退避する計りだった。敵が去った後はいつも兵舎や道路等の修理のみであった。7月頃であったかサイパン島玉砕と聞くやそれ以来我がトラック島は自然消滅かの如く思った。其の後度々の空襲で砲側の円錐は大破され、砲の旋回も出来ぬ様になったので4艦隊司令部の命により我が高角砲隊は今度春島へ移転する様になった。夏島に於いて4艦隊の目に止まる戦果を挙げて砲は分解して掘り起こし、2ヶ月余りかかり船に積み込み、春島へ輸送す。春島は飛行場の直上の山に再構築にかかる。椰子の木を切り柱を作り砲台の円錐を造る。岩盤地帯故大変な難工事であった。兵舎は椰子の木の林の中に立てたが穴のあいたトタンで屋根をしたのでスコールの度毎に雨がもって毛布を濡らしたことが度々あった。空襲の度毎に機銃操射や爆弾投下の破片等で兵舎は荒れる計りなり。主食の米が不足して来たので焼かれた山を開墾し兵舎の付近も掘り返して畠を作り甘藷苗を植えた。大きくなったと喜んで居ると爆弾で目茶々々にやられた時もあった。主食に甘藷計りでは続かぬので木の実を主食にした時もあった。空襲を受け乍ら砲台構築も出来上がり度々の空襲に各砲有るだけの砲弾は打ち終わり、1ヶ砲に50発の宛は玉砕の時に最後の別れの砲弾に残し、其の後の空襲には防空壕へ退避して、其の他は戦備作業として隊長以下総員主食の甘藷作りに毎日働けり。夏島で一度砲弾を打ち終わったが、其の後潜水艦が内地より輸送してきてくれたので有難く受け取り手入れをなし砲台の弾薬庫に納める。最初のうちは幾らでも内地より弾の補充が有るものと思い、空襲の敵機に各砲毎に競争で発砲したが補充が無くなってからは敵機を見乍ら発射用意の号令で装填し、砲員張り切って射ての号令を待ったが、指揮所より射ての号令出ず敵機は次第々々に遠くなっていくことが度々あった。弾薬庫内の砲弾の数が知れて居るので指揮所よりは敵機が我が島を攻撃せない限りは射ての号令は中々発令されない。他の砲台は弾を沢山持って居るのか毎日発砲して居るが我等は命とたのむ砲弾が少なき為思う存分に発射できず残念であった。而し敵が我が砲台を攻撃に来た場合は総員血湧き肉躍る張り切った勢いで4門の砲が一斉に火を吐く。敵機の近くで砲弾が炸裂したのがよく見える10余機宛の敵機も各島の砲台よりの一斉射撃に目的も達成出来ずいずこかへ姿を消したと思い乍ら亦次の一隊が現れたり、我が隊は指揮所より敵機爆弾投下の号令あり。しばらくするとヒュヒュ々々音がしたかと思うとダダンと地震の如く地響きがした。我が砲台は異常なしだが兵舎の前の甘藷畑を亦目茶々々にやられた。弾片で兵舎の屋根に多くの穴をあけられ修理にこまった。敵は我が砲台のすぐ下の飛行場へ投下したらしいが各砲台の一斉射撃に急いで落として飛び去ったので早く落としたのが我が兵舎の前の甘藷畠に落下したのであった。後で落としたのが同じ春島の北側の第一飛行場に落下して整備兵が多数の戦死者や重軽傷者が有ったと聞いた。度々の空襲で各飛行場の滑走路は目茶々々にやられ我が友軍機は多数の残骸あるのみ、我が砲台の直下は春島第二飛行場の滑走路なるが最初の内は2、3機発着して居たがいづこへ行ったか姿を消して仕舞った。我が友軍機は1機も飛ばないので敵も段々大胆に成り、各砲の死角を飛んで海上すれすれに飛び各所をカメラに取っているらしい。ある時は我が砲台の上を低く来たこともある。其の時は永いさおがあればたたき落とせる位であった。我が砲の死角を飛ぶ時は敵機を見下ろすのであるから敵が乗って居るのがよく見える。我等の砲も敵のカメラに納まって居るものと思う。砲弾が無くなってから空襲になると岩盤の防空壕へ総員退避するのが定期である。敵が去れば主食の甘藷作りなり。夜間の空襲に敵機が照明弾を落とすと退避するのに明るくてよいがすぐ機銃操射(掃射)をやられるのにはこまった。其の後或る日の空襲で岩盤の防空壕に入って見て居るとすぐ前の夏島の東方海上に敵軍艦が5隻並んで居るのがよく見えた。1隻は航空母艦も見えた。敵機は夏島の夏島の上空を飛んで居る軍艦よりは夏島を砲撃して居る。弾着は思った所へ上手に落として行く。総員防空壕より見て居てトラック島も玉砕だと云いあった。其の晩であった。我が山根隊長より総員第3兵舎に集合せよとの命令あり。第3兵舎とは我等2、3、4番砲の兵舎なり。夕食終わるやすぐ甲板掃除をす。第1、第2兵舎より総員我等の甲板に集合す。隊長より訓示あり。我等のきょうの戦況で大体分かって居る。トラック島も玉砕が時間の問題なり。明日は見廻り品を整理して書物や日記帳写真等は書類と共に全部第2兵舎の裏で焼却せよと言い私があった。其の翌日朝食から銀飯であった。永い間銀飯を食べなかったので大変美味しかった。分隊士がいつも云われた玉砕用の米を残すから今は甘藷やパンの実(木になる実)で我慢せよと玉砕するようになると銀飯を腹一杯食って共に死のうと朝食の銀飯は美味しかったが各書類や写真を焼却する時は胸を痛めた。一番後に残ったのは写真であった。戦友も写真計りはおしがっていた。而し命令故しかたなく総員焼却したのだった。敵缶は毎日現れ、各島々を艦砲射撃して終わりには上陸用舟艇で一斉に上陸を決行するものと思いしに意外にも其の後敵艦の影も見せず敵機の姿も見ず、これでトラック島は自然消滅するものと思って居るのだろう。而し空襲には時々やってきた。我等内地を出る時今度の観艦式は桑港だと聞かされ乍ら出たのに意外にも無条件の降伏となった。我等も玉砕が時間の問題と思って居たが意外にも生命が続いて無事再度内地の土を踏む事が出来、復員せり。種々と書きたいが戦地下日記帳を焼却したので詳細な事は書けないが思い出し乍ら書いたので前後したり文面に不都合な点も多々あると思うが、大略の思い出を記す。
海軍二等兵曹
武 田 繁 夫
昭和20年12月30日復員
玉砕 甦らぬ「英霊」二百十万 ≪ 映像を見る≫ atuhenuhabag ≪地図から検索≫‐NHK atuhenuhaba ejudategabad