畑中 弘さんに贈られた日の丸の千人針 ↑
天皇は、学校でも軍隊でも、天照皇大神からつづく万世一系の現人神と教えら、「皇軍無敵」を疑う自由は許されませんでした。刑法に不敬罪が加えられたのです。[1880年(明治13年)~1947年(昭和22年)]「 戦陣訓 」参照⇒
(※1) 震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し、上陸船団に体当たり攻撃する。(Wikipedia)
海底を徒ゆく跣足(はだし) 震洋(しんよう)(※1)忌
鯨の中の畳の部屋に灯がともる
(元震洋隊 土肥幸弘氏 玄鳥 前主宰碑)
風死すや 竹に爆弾 待つ敵艦
(元伏龍隊Y)
30キロ担ぎ競いし盃山 3000人中100人帰還
夜半の戸を激しく叩くは引き揚げの
夫かと開けば またも北風
盆の月 遺影の父は私を知らず
父ありき大戦最中のミンダナオ 夢にも会わず七十年過ぐ
敗戦日 デカンショ囃しの自決兵
硫酸銅無言で配らる 敗戦日
敗戦日 満州一円四面楚旗
(T元将校〈87歳〉)
十二より戦死の父の田を起こし 子息の代も三代代掻く
(故 丹後 勲元遺族会長 84歳)
震洋
震洋素描
震洋の最期の卯月ベニヤ艇
の船
震洋忌
特攻機 尽きて残った予科練特攻隊 犠牲者2500
のテッポダマ
最震洋後の死場はベニヤ板
輸送途中 搭乗員輸送に轟沈
出発時450隻 ⇒ 100隻 コレヒドール島8隻
2月16日米軍 コレヒドール上陸陸上戦
バターン半島へ脱出 12時間泳ぐ
20-4ー1
折れかけのリヤカーで運ぶベニヤ艇 三度目の出撃命令
震洋5隻
沖縄上陸最後の戦果人間を
ミッドウェー海戦
父ありき 大戦最中のミンダナオ 夢にも会わず七十年過ぐ
ニューギニア出征前の父帰宅 止まらぬ母と祖母の慟哭(どうこく)
=悲しみ号泣する二人の口は、犬のよう…
母がこれほど泣くなんて見たことない。当時6歳女児のおどろき)
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Xxxxxx......今月の激戦 .....xxxxxX
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4月1日/1945年当日の天候は晴、日の出6時21分、満潮時間は9時10分。米軍は艦艇が海岸近くのリーフを越えさせるために、この満潮を利用した。⇒
日本軍は数日前から嘉手納正面に徹底した艦砲射撃や航空攻撃が加えられていたことから、概ねの上陸地点を予想していたために、上陸に関して大きな混乱はなかったいわれる
=もっと見る=
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「戦艦大和の悲劇 大艦巨砲主義 時代に敗れる」
その時歴史が動いた (2 005年)NHK
1941.12.8 N太平洋戦争始める
日本帝国海軍
マレー半島上陸
NHK アーカイブス
(写真↑ マリアナ諸島 原住民のタオタオ- タノ人)
(クリックすると拡大)
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ここへ欧米、 日本が入植
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(植民地争奪戦争)世界大戦へ
陸訓第一号 本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ 昭和十六年一月八日 陸軍大臣 東條 英機
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◇ 序
夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並に訓練等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。
◇ 本訓 其の一
第一 皇国
大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
全ての米軍空母に
巡洋艦・航空機監視 レーダ ー
当初、CXAM の航空機探知距離は70kmで,航空機の高度を測定する機能も無く,さらにAスコープはそれぞれの航空機を識別できなかった。
やがて、探知距離を210kmにするため出力を大きくし,航空機の高度を測定するビーム切り替え方式を備え,表示装置をPIとした SK を完成させて,1942年にCXAMを換装。
軍艦旗降下を敬礼で見送る乗員たち。この後、乗員たちは万歳三唱で瑞鶴の健闘を讃えた。
5月1日/ 1942年 (昭和17年)
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英領ビルマ・ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)突入。以後遠征実に54日、620キロ。苦闘のすえ、マンダレーへ入城。
さらにインパールとコヒマ(英領インド)へ山脈を越える。現地調達の食糧、牛馬も豪雨に流され、英軍の囮に・・・。お負けに赤痢、マラリア等、言語に絶する悲惨な闘いとなる。
(cf) 竹山道雄「ビルマの竪琴」
5月1日/1942年、英領ビルマ・ラングーン突入。以後遠征実に54日、620キロ。苦闘のすえ、マンダレーへ入城。
6月15日~7月9日(1944年)
5月12日/1943年 (昭和18年)
「突撃しまーす」
起つなり雪に
数珠散れり
この日の11カ月前の六月 、帝国軍2,650人がアッツ島(アメリカ領)に上陸・占領した。
だが、1943年5月12日、アメリカ軍(11,000人)がアッツ島に上陸、陸海空から猛反撃を開始、日本帝国軍救の援はなく、17日間の激戦の末、5月29日全滅、「玉砕」した。
アッツ島とキスカ島
(アメリカ領)
テニアン上陸の米海兵隊(1944年)
日本軍 戦死 8,010 捕虜 313
米 軍 戦死 328 負傷 1,571
( マリアナ諸島 )
日本から南へ2500キロ。太平洋の真ん中に浮かぶテニアン島。太平洋戦争後半の昭和19年、日本の支配下にあったこの島にアメリカ軍が上陸。激戦の中で、軍人と民間人、合わせて1万人以上が犠牲になった。
》粗描《
雨季奔流 略奪の糧 牛流る
インパール 作戦ことごと流れたり
常緑のコヒマの決戦 補充なし
前線の死臭吹き上ぐ炎暑谷
腹わたの出た兵「お先…」と逝く炎暑
兵のウジ 友の目から食い始む
風死すや「世話になったの…」真っ暗闇
......八月句会......
軍刀の血のような錆 蚊遣り香 勝子
腹わたの出た兵「お先…」と逝く炎暑 宇則
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迎え火や 仏が兵呼ぶコヒマ谷※
汗服の隙より勇士のあばら骨
前進は無理 顔で訴え突撃す
石投反撃 今夜焼肉 狂喜の兵
支援打電 とうに力尽く帝国
手榴弾予期せぬ不発 鼻の汗
抜く信管 一瞬ためらう脂汗
塹壕の囮へ 響焔戦車砲 (英軍)
5センチにへしゃぐ戦友 コヒマ照り
鷹、蟻の大軍葬やインパール
一匹の蟻だに寄らぬ兄貴の骨
おとといの勇士の頭蓋 兜虫
※コヒマ(インド北東部)⇔ミャンマー間は
「白骨街道」と化した、とある。
2016.8 …合掌… 宇則
玉砕 甦らぬ「英霊」二百十万 ≪ 映像を見る≫ atuhenuhabag ≪地図から検索≫‐NHK atuhenuhaba ejudategabad